略年表


亨録3年(1530) 1歳 正月21日、長尾為影の二男として越後国頸城郡春日山城に生まる。
母は長尾肥前守顕吉の娘。
天文4年(1535) 6歳 6月4日、朝廷、御旗を為影に賜う。
同月29日、為影青銅5千疋を朝廷に献ず。
天文5年(1536) 7歳 林泉寺に入り学に就く。
この年後奈良天皇即位、為影幣を献じ、奉賀す。
8月、為影の長男晴影、家を継ぐ。
12月24日、為影病死。
天文12年(1543) 14歳 兄、晴影に代わり、所領を統轄せんとして、栃尾及び三条に至る。
天文14年(1545) 16歳 黒田忠秀叛く。晴影私敵退治の綸旨を奏請し、9月、朝廷、綸旨を賜う。忠秀降り、後また叛く。
天文16年(1547) 18歳 黒田忠秀、誅せられ、国内平定す。
天文17年(1548) 19歳 兄晴影と不和、国内治まらず。上杉定実の勧めを容れ、晴影と父子の義を結び、春日山に入り、長尾家を嗣ぐ。
天文20年(1551) 22歳 長尾政景叛き、後降る。
12月、上杉憲政、北条氏康に攻められ、平井城陥落。
天文21年(1552) 23歳 正月、上杉憲政来り、救援を乞う。
4月、従五位下に叙し、弾正少弼に任ぜらる。
天文22年(1553) 24歳 2月10日、養父晴影病没。
8月、信濃の将村上義清等来たり投じ、援を乞う。
この年某月上洛して、参内、後奈良天皇の天顔を拝し、天盃並に御剣を賜わる。高野山に詣ず。
12月、入道、宗心と号す。
同月、京都より帰る。
天文23年(1554) 25歳 7月、武田晴信、信濃を侵略す。公、信濃に出陣し戦わずして帰る。北条高広、叛いて信玄に通ず。
弘治元年(1555) 26歳 2月、北条高広を攻めて降す。
7月、兵を出し信濃に入り武田晴信と川中島に対陣す。
同10月、今川義元の調停を容れ、講和す。
弘治2年(1556) 27歳 3月、遁世の意を発表し、諸将の乞を容れ、8月にこれを止む。
弘治3年(1557) 28歳 4月、信濃に入り、晴信と戦い、9月帰国。更科八幡及び小管元降寺に祈願文を納む。
9月5日、後奈良天皇崩御。
永禄元年(1558) 29歳 上杉憲政、再び来たり投ず。将軍足利義輝、公を諭し、武田晴信と和せしむ。
永禄2年(1559) 30歳 4月28日、上洛せんとして、兵3000を率い近江坂本に至る。
5月朔日、参内、正親町天皇に拝謁、天盃及び御剣を賜わる、奉献する所多し。関白近衛前嗣と結託、越後迎下を約す。
8月、帰国す。
永禄3年(1560) 31歳 正月、正親町天皇、即位の大典を挙げらる。
3月、越中出陣。
7月、朝廷に御料所を献ず。
8月、関東に出陣。
9月、近衛前嗣、来越。
永禄4年(1561) 32歳 3月、北条氏康を小田原城に攻囲し、1ヶ月の攻囲を解く。
同3月、上杉憲政の懇請容れ上杉氏を嗣ぎ名を政虎と改む。
9月10日、信州川中島に於いて武田晴信と大激戦。晴信を傷つけ、その弟信繁を斬る。
10月5日、近衛前嗣、書を与えて戦捷を賀す。
永禄5年(1562) 33歳 将軍足利義輝の偏緯を賜わり、輝虎と更名。
7月、黄金を朝廷に献ず。
永禄6年(1563) 34歳 2月、武田晴信、北条氏康、松山城を陥る。公の軍後れて至り、2人遁れ去る。
3月、私市城を攻降す。
7月、飯綱八幡宮に、晴信及び氏康、調伏を祈る。
永禄7年(1564) 35歳 3月、小田原城を再征。
6月、祈願文を越後弥彦神社に納む。
7月、黄金を朝廷に献ず、姉の夫、長尾政景溺死す。
10月、飯山城を修築。
11月、佐野城を再征、これを降す。
永禄8年(1565) 36歳 正月、病む、卒去の訛伝あり。足利義輝、内書して北条氏康と和せしむ。
永禄9年(1566) 37歳 5月、武田晴信を滅し、北条氏康と和し、三好、松永等を誅し、京都及び鎌倉、両公方を擁立せんことを祈願す。
永禄10年(1567) 38歳 10月、武田晴信、息子の義信を幽し尋ねてこれを殺す。
永禄11年(1568) 39歳 本庄繁長、武田晴信に応じ村上城に拠る。
3月、公越中に入る。
5月7日、生母病没す。
11月、本庄繁長を攻む。
永禄12年(1569) 40歳 正月、北条氏和を乞う。
3月、本庄繁長降る。
潤5月、伊勢太廟遷宮費を献ず。
8月、越中出陣。
11月、関東出陣。
元亀元年(1570) 41歳 3月、氏康の子、氏秀を養子とし、父子の義を定め、名を景虎と称せしむ。
8月、徳川家康に対甲同盟。
10月、北条氏康没す。
12月、謙信と称す。
元亀2年(1571) 42歳 家康、刀一口を公に贈る。
3月、越中に出陣。
元亀3年(1572) 43歳 正月、信玄及び氏政の軍と利根川を挟んで対陣す。
5月、加賀一向宗徒蜂起。
8月、越中に入り一向宗徒と戦う。
11月、信長は信玄と絶交、公と結ぶ。
天正元年(1573) 44歳 正月、越中にあり、信長と共に、信玄を撃滅せんと謀る。
4月、武田信玄没す。年53。
7月、再び越中に入り悉く平定す。
8月、加賀に入り朝日山城を攻む。
12月、帰城。村上氏の邑を復す。
天正2年(1574) 45歳 正月、北条氏政と戦わんとして出陣の令を布く。
3月、信長金屏風を公に贈る。
9月、再び関東に入る。
12月、帰城。
同月19日、剃髪法体、法印大和尚に任ず。
天正3年(1575) 46歳 6月、前将軍足利義昭備後より書を送り、甲相と和し、毛利氏と呼応して信長を除き、足利氏の再興を托す。
天正4年(1576) 47歳 2月、七尾城変あり、信長と絶つ、毛利氏と交渉開始。
6月、毛利氏と信長夾撃を約す。
11月、加賀四郡附属す。
12月、能登に進む。
天正5年(1577) 48歳 正月、能登にあり、加賀の敵党を攻撃せんと謀る。北条氏政、関東の勢力を侵す。諸将条出援を促す。
潤7月、能登を平定せんとして、越中に入る。七尾城の長継連、援を信長に乞う。
9月13日、七尾城攻囲中、酒を置き、詩を賦す。
12月、城陥る。加賀に入り、湊川に信長の軍と戦う。
同12月、帰城す。
天正6年(1578) 49歳 5月19日、兵を関東に出し、北条氏を撃破し、しかる後西上せんとして、出陣の令を布く。
2月、寿像を描かしむ。
3月9日、病に罹る。
3月13日、没す。
3月15日、葬る。法諡、不識院殿真光謙信。

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◆上杉謙信◆