浅井新八郎(あさい-しんぱちろう) 尾張〔馬〕


生没年不詳

近江浅井氏の一族で実名は「政澄」などと伝わるが、信用の限りではない。尾張の浅井氏だろう。

中島郡刈安賀に居住し、信長に仕える。永禄年中、赤母衣衆の1人に選ばれた。永禄11年(1568年)9月の入京の途、佐久間信盛、木下秀吉、丹羽長秀に添えられ、箕作城攻めに参加。以後、小谷攻め、長島攻めなど、信長に従って諸所に転戦する。

身分は信長馬廻だが、当時の佐々成政や簗田広正らと同じく、小部隊の指揮官といったところだろう。有力部将と一緒の行動がしばしば見られる。

天正2年(1574年)頃から信忠の軍団が形成され、尾張、東美濃の士がこれに付属されていくが、新八郎も尾張衆としてこれに組み込まれたらしい。同6年6月、信忠の命により、播磨の砦の警固を務めている。

その後新八郎の名は、良質の史料に見えない。本能寺の変以前に没したものと思われる。

その子田宮丸は、老臣として信雄に仕えた。

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織田信長家臣団 ア行