荒木村重(あらき-むらしげ) 摂津〔将〕
天文5年(1536年)〜天正14年(1586年)5月4日
弥助・信濃守・摂津守。筆庵道薫。摂津池田氏の臣。永禄12年(1569年)1月、池田勝政に従って本圀寺を救援したのが良質史料初の初見である。 元亀年間、村重は急速に頭角を顕す。元亀元年(1570年)、主勝政は家中の争いから大坂へ出奔。村重はその弟重成を擁立して実権を握る。翌年、三守護の1人和田惟政と戦い、討死させた。 天正元年(1573年)、将軍義昭と信長との衝突が起こった時、村重は信長方に付き、京へ向かう信長を逢坂に出迎え、感激させた。将軍追放後、摂津のかなりな部分の支配を認められたのか、禁制などの発給文書が数点見られる。 同時に信長の厚い信任も得たのだろう。翌2年3月の東大寺の蘭奢待切取りの時、村重は外様衆では只1人、佐久間・柴田ら譜代の重臣達に混じって、奉行に名を連ねているのである。 この年11月、村重は伊丹城を攻めて、三守護の最後の1人伊丹忠親を逐った。ここで信長より摂津一職を与えられ、伊丹を有岡と改名して入城した。 以後の村重は譜代の将と一緒に諸所に転戦するが、彼の主要任務は大坂の本願寺にあたることであった。村重に加え、細川藤孝・塙直政による大坂攻囲の体制が、天正3年に出来上がっている。 天正4年5月の直政の討死で早くもこの体制は崩れ、大坂攻めは佐久間信盛が担当することになる。村重も引き続きこれに助力する一方、播磨方面のことも受け持つことになった。 だが天正5年10月、播磨1国を与えられて羽柴秀吉が入国すると、この方面でも村重は手伝いにすぎなくなる。このあたりにも、村重謀反の遠因があるのではなかろうか。翌年5月の時点で、村重が毛利氏と通じていたことは確かである。 天正6年10月、村重は信長に謀反した。属将高山・中川が離反しても、信長軍総力をあげての攻撃にも耐え続けた。妻子を捨てて有岡を脱出し、その妻子が虐殺されてもなおも尼崎城で持ちこたえた。毛利の下に逃れたのは、同8年閏3月頃である。 信長死後は筆庵道薫と号し、一介の茶人となった。 |