飯尾定宗(いいのお-さだむね) 尾張〔将〕
?〜永禄3年(1560年)5月19日
近江守。信秀の伯父とも従兄弟とも伝わっているが、定宗及びその子尚清の年代から見ると、後者の方が確かなようである。 飯尾氏の養子で、奥田城主となった。信長に従って弘治2年(1556年)6月、守山城攻めに従軍。永禄3年(1560年)5月、子の尚清、織田秀敏と共に今川軍に備えて、鷲津の砦に置かれた。しかし今川軍の猛攻を受け、敗死した。 『寛政重修諸家譜』には、室町将軍の直臣として相伴衆に加えられたとあるが、幕臣の飯尾氏の誰かとの混同であろう。 子の尚清は通称隠岐守。一般には「信宗」と伝わっている。永禄年間に選抜された赤母衣衆に名を連らね、一貫して信長の側近で馬廻を務める。各所での戦いに従軍する一方、天正5年(1577年)4月、大坂への付城の構築、同7年4月、三木表の砦普請の検使などの活躍が見られる。同19年(1591年)2月22日、64歳で没。 |