勝三郎。入道号勝入。長男元助は紀伊守を称するが、父恒興の任官については明らかではない。それにも関わらず、父子混同したものか、恒興は記録類にさえしばしば「紀伊守」と書かれている。また「信輝」と伝えられるが、これは訛伝である。 母は、信長の乳母養徳院。即ち信長とか乳兄弟である。摂津の池田氏の流れというのは、家柄を誇示するための潤色で、元来海東郡の人であろう。
幼児から信秀に、次いで信長に仕え、海津の戦・稲生の戦・桶狭間の戦に従軍して功名というが、確実な史料のみに拠れば、永禄4年(1561年)5月の軽海の戦で、敵将稲葉某を佐々成政と2人で討ち取ったという『信長公記』の記事が初見である。
信長入京後も大河内城攻め・越前攻め・槙島城攻めなどに従軍。この頃の戦いで恒興が特に目覚しい活躍をしたのは、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦である。この時恒興は。丹羽長秀と共に家康軍の加勢となって朝倉軍と戦い、勝利への端緒を開いた。この頃の身分は小なりとはいえ、一応部隊指揮官。佐々成政ら馬廻よりは大身といったところだろうか。
天正2年(1574年)2月、美濃明智城後巻きのため出陣した後、小里城に入れ置かれる。これは同じく神箆城に置かれた河尻秀隆と並び、信忠軍団の最前線の役割を担ったものである。恒興は以後5ヵ年近くの間、東美濃で働いていたらしい。
天正6年11月、久々に美濃を離れて摂津有岡攻めに参加。翌々年までその地に居て、花隈城を攻略し、荒木の残党を摂津より一掃した。
その功により摂津の地を与えられ、有岡に入城。天正9年8月の中国攻めの用意の命の中に、摂津にて「池田勝三郎大将として」とあることから考え、摂津全体の軍事指導権を委ねられたのかもしれない。
本能寺の変の時にはまだ摂津にとどまっており、東上する秀吉軍に合流して、山崎の戦に参加する。
その後賤ヶ岳の戦・小牧に戦と、一貫して秀吉に味方。天正12年4月、長久手に軍を進めたところを家康軍に攻撃され、討死した。 |