伊丹忠親(いたみ-ただちか) 摂津〔幕〕


天文21年(1552年)〜慶長5年(1600年)9月15日

兵庫守。実名は「正親」「親興」とも伝わる。天文年間に活躍した大和守貞親も「親興」を名乗ったので、両者はとかく混同されやすい。恐らく父子関係なのだろう。

摂津伊丹に在城していたが永禄11年(1568年)、信長入京と同時に義昭に降り、池田勝正・和田惟政と共に摂津の三守護とされる。当時17歳である。翌年1月に本圀寺ほんこくじの義昭が三好三人衆らに攻められた時、伊丹より救援に駆けつけた。

元亀元年(1570年)8月、信長に従い野田・福島攻めに出陣。10月15日、信長より勝利を祝福されている。同3年4月にも信長の将佐久間信盛・柴田勝家らと共に河内へ出陣した。

信長と将軍義昭との対立の中で義昭に味方。一旦赦されたものの、天正2年(1574年)に再び反抗。11月に荒木村重に攻められ、伊丹城を出奔した。

本能寺の変後、秀吉に仕え馬廻。最後は関ヶ原の戦で東軍にあって戦死した。

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織田信長家臣団 ア行