一雲斎針阿弥(いちうんさい-しんあみ) 尾張〔同〕
?〜天正10年(1582年)6月2日
天正7年頃は主として法隆寺のことを担当。多数の書状が『法隆寺文書』中にある。その他箸尾為綱・興福寺大乗院・薬師寺など、大和国衆や寺院との接触が見られる。
本能寺の変の時は信長の傍らにあって、討死した。
◆織田信長家臣団 ア行◆