市橋長利(いちはし-ながとし) 美濃〔馬〕
永正10(1513年)〜天正13年(1585年)3月13日
九郎右衛門・一斎。「長利」という実名も生年も、系譜類によるもので、信用の限りではなし。『信長公記』には、九郎右衛門の他に「伝左衛門」が見られるが、これは系譜類にある長利の父利尚なのだろうか。 系譜類に見える「長利」は、美濃青柳城に居住後、福塚城に移るという。西美濃衆の1人である。 市橋氏は早めに信長に属したらしく、永禄6年(1563年)4月24日に、同じ美濃衆の高木貞久の信長への降伏を仲介している。また、同7年7月2日付の国枝古泰(稲葉氏の一族)宛ての信長書状に副状を発給している。信長の美濃経略の初段階において、美濃衆の誘降にひと役買っているのである。 九郎右衛門の事績を追ってみると、軍事面でも大河内城攻め、小谷城攻め及び姉川の戦、佐和山城攻めなどに参加している。信長馬廻で、小部隊の指揮官といった存在である。 天正3年(1575年)11月の信忠の家督相続と共に信忠家臣団に編入されたか、同6年6月に信忠の指揮下で、播磨の砦の警固を務めている。 その後、剃髪して一斎と号し、本能寺の変後は秀吉に仕える。天正12年2月現在、河内交野郡星田庄を領している。 |
2007年1月5日更新