家系と生い立ち
米沢の藩祖と仰がれる上杉謙信は後奈良天皇の享禄3年(1530年。平成5年起算、463年以前)1月21日、越後頚城郡春日山城に生まれました。父は越後の守護代長尾信濃守為景、母は同族栖吉の城主長尾肥前守顕義の娘でした。
幼名を虎千代と言い、元服の後は平三景虎となりました。そして永禄4年(1561年)32歳の時、関東管領上杉憲政の跡を継いで、上杉政虎と改められました。次いで時の将軍足利義輝の偏諱を受けて輝虎と称し、元亀元年(1570年)41歳の時から謙信と称されました。
まだ幼少の時代、越後の守護職である上杉家の声望が次第に衰えて、その威令が少しも行われなくなってしまいました。そこで守護代(副知事のようなもの)の長尾為景が代わって国内の政治を行いました。しかし国内には、その下知に従わない輩もあちこちに横行し、国内の人民は不安でたまらず、いつも安心して生業に従事することができない有様でした。そこで為景は、それではならないと、朝廷から賜った綸旨(天皇のお言葉)を頂いて、南に北に馳せ廻って、悪い輩を打ち平らげることに余念がありませんでした。
天文5年(1536年)、謙信が7歳の時、春日山の城下林泉寺に入って、住職天室光育について学問を始めました。この年8月、父の為景は家督を長男の晴景に譲りましたが、間もなく春日山城内で病気のため亡くなりました。(為景は越中栴壇野で討死したと伝えるのは祖父能景の誤り)守護代の為景が俄かに亡くなったので、逆徒の者共がこの時なりと、春日山の城下まで押し寄せる有様だったため、謙信は甲冑に身を固めて、亡き父の霊柩を送らなければなりませんでした。
父の為景が亡くなってから、兄晴景が再び上杉家を助けて越後の国政を執りましたが、麾下の諸将が互いに党を立てて、反目し争っているのでどうしても統一がつかず、国内が乱れて治まりませんでした。
このような中で成長した謙信は様々な苦労をし、悩んだことはいうまでもありませんが、生まれながらにして素質の優れていた謙信は、文武の修行に精を出すことに余念がなく、早くから牛をも呑むような豪胆不屈の気性を表し、他日風雲を叱咤して天下を震い動かすような下地ができていました。
天文12年(1543年)、越後国内がますます乱れて兄晴景1人ではどうしても手に負えなくなり、謙信にこれを鎮めるように命じなければならなくなりました。その時の謙信はわずか14歳になったばかりで、三条や栃尾にいました。父為景が亡くなってから8年しか経っていませんでした。しかし兄の晴景は性質も弱々しく持病に悩まされて、どうすることもできませんでした。
天文14年(1545年)、長尾家の重臣である黒田忠秀が謀反を企てました。謙信は大いに怒って翌年、春日山城に帰り、兄晴景と相談して諸将を招集し、堂々と忠秀征伐の軍を起こすこととなりました。これを聞いた忠秀は大いに恐れて直ちに降伏したので、謙信はこれを聞き届け、再び栃尾に帰りました。しかし翌16年、忠秀が再び叛いたので謙信は兄晴景を助け、諸将を招集して討伐の軍を差し向け、忠秀の一族をことごとく族誅しました。これで謙信の威望が大変盛んになったのです。ところが数多い家臣共の中に、謙信の権勢を妬んで陥れようと謀る者が出てきました。兄晴景はこれらの者共にそそのかされて、その讒言を信じ密かに謙信を除こうと企て、一族である長尾政景がこれに味方しました。これによって国内が再び乱れ、兄弟が同じ垣の内にせめぎ合うような悲惨なことが起ころうとしていました。