兄晴景と父子の義を結ぶ


その時に上杉定実がこれを大変心配して、どこまでに円満に治めようと晴景に勧めて和を講じ、弟である謙信を晴景の養子として跡を継がせることとし、謙信もまたこのことを承諾して春日山城へ入って晴景と父子の義を取り結ぶこととなりました。時に天文17年(1548年)12月晦日のことで、謙信は19歳でした。麾下の諸将も揃ってこれを喜びました。

その後5年経っては兄晴景は遂に、病気のため逝去しました。(天文22年2月10日)享年42歳。謙信はこれを哀れんで花丘院という寺を建てて菩提を弔い、追孝の意を表しました。(世に、謙信が兄晴景と争って遂にこれを攻め殺し、長尾家を横領したように伝わっているのは大変な誤りです)

かくて謙信は越後守護代長尾家の統を継ぎ、諸将を指揮して国内を治めることとなりました。同19年2月に守護職上杉定実が歿したので、謙信は名実共に越後の国政を掌握することとなりました。

長尾氏の系譜を尋ねると、本姓は平。遠祖は恒武天皇から出ています。天皇の第4王子、葛原親王、その孫、高望王が初めて姓を平と賜りました。高望王6代の孫、景明が相模国鎌倉郡長尾の荘におり(俗に鎌倉権五郎と称する)、その子景弘が初めて長尾次郎と称しました。その子孫が大いに繁衍して諸国に散居するようになり、上野にいた者を白井長尾と称しました。後年の越後長尾はこの白井長尾の支脉です。そして長尾の諸族はいずれも上杉の支配を受け、時に幕府の政事に参与しました。2家は自然主従の関係にあり、白井長尾の主、藤景は上杉頼成りの子であるため、同家はその後上杉家の血脉を受けたわけです。藤明の子景田忠、越後守護職上杉憲顕の執事となり越後の国に随住し、戦功もありました。その関東に帰るや、弟弾正左ェ門尉某が留まって守護上杉憲将の股肱となり、子孫代々越後で上杉家を補佐しました。

弾正左ェ門尉6代の孫能景、民部大輔に任じ武略があり、永正3年9月、主上杉房能のために越中般若野の戦で敗死しました。能景は為景の父、謙信の祖父に当たります。

越後長尾家略系

永禄4年(1561年)閏4月16日、謙信は関東管領上杉憲政の譲りを受け、山内上杉家を継ぎ、爾後、上杉氏と称しました。上杉氏は藤原氏の出です。大織冠鎌足7代の孫、勧修寺内大臣高藤の庶流です。高藤10代の孫、修理大夫重房、丹波上杉荘を賜り、上杉と称しました。竹輪、双飛雀の紋を用いています。建長4年、征夷大将軍、宗尊親王に従って鎌倉に下り、武家となりました。子孫繁延、関東の名族となりました。正平4年、足利尊氏の次子、某氏が関東管領となった時、上杉民部大輔憲顕(重房の曾孫)の執事に任ぜられ、越後、上野、伊豆3ヶ国の守護となりました。上野の平井城を根拠とし、管領を助け大いに関東の民心を悦服させました。

山内長尾家略系

上杉氏は分派が多く、犬懸・山ノ内・扇谷の3家に分かれ、憲政は山内家に属していますが,北条氏康のために鎌倉を追われて衰微の極に達し平井の本拠も失い、逃れて越後にやって来ました。そして謙信の許に身を投じ家督を譲って、家名の再興を冀うことになったのです。

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