国内の騒擾


天文20年(1551年)、長尾家の支族である長尾政景が上田城で叛きました。そこで謙信公は部将を遣わしてこれを討たせ、ついで自ら兵を進めたため、政景は大いに驚き恐れて、誓紙を奉って降参しました。謙信公はこれを許し、そればかりでなく己の姉を嫁がせて政景の妻とし、真心を打ち明けて何事も相談するようになり、後には政景の子景勝を養って跡継ぎとしました。

天文23年(1554年)、北条高広が其邑北条城にて叛き、武田信玄に応じました。弘治元年(1555年)正月、謙信自らこれを攻め、2月に高広に降服を許しました。

同年2月、大熊朝秀がまた信玄の誘いに応じて叛こうとしましたが、事が現れて越中に走り、再び越後を侵そうとして敗北し、遂に甲府に遁れました。その後2年で北条氏との和議が成立し、氏康の乞いによって高広を赦しました。

同11年、信玄が本庄繁長を誘ったので、繁長はこれに応じてその城に拠って叛きました。10月に謙信公は自ら景勝等を伴って本庄城を攻囲したため、繁長は支えることができずに降参しました。北条氏はまた繁長のために乞うことがあったので、謙信公はこれを赦し、翌年4月、春日山城に帰りました。その後は国内の紛争が全く見られなくなりました。

謙信公1代の戦歴を調べてみると、或いは加賀、能登、越中地方にしばしば兵を出し、一向宗徒の横暴を懲らし、或いはしきりに関東地方を経略して北条氏の我儘な振る舞いをくじき、或いは将軍、足利義昭のために奸雄織田信長を討伐して、将軍の職を回復させようとし、中でも村上義清等の哀請を容れて、梟雄武田信玄を討ち義清等の旧領を回復してやろうとして、歴史上有名な川中島の大激戦となり、その後両雄あい降らず、勝負を争うこと実に20余年にわたりました。

謙信公の生涯中、自ら陣頭に立って攻城軍を指揮すること70余回、部下の諸将に命じて敵を攻め城を陥れたことはその数を知らずという有様でした。しかし野戦に至っては川中島3度の会戦の他はほとんど数えるに足りません。それは敵将がいずれも謙信公の鋭鋒に怖れて野戦を避け、城塞に籠るのを常としたためであろうと思われます。ただ独り武田信玄ばかりはいつも精兵を提げて来て鉾を交えるのを常としましたが、永禄4年における川中島の会戦が唯1回の大激戦に過ぎません。両軍互いに自重して相引に終わることが多く、殊に信玄は権謀術数を弄して、謙信の鋭鋒を避けることに努めました。

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◆上杉謙信◆