尊王の事蹟


謙信の生涯中、特筆大書しなければならない一事があります。それは日本の戦国時代の真っ最中に万艱を排して上洛し、時の天皇に親しく拝謁を仰せつかり皇居修理の費用を献上し、その他にも色々な品物を献上したことです。しかもそれが一度ならず再度にわたったというのですから、驚くほかはありません。謙信の行為は自らの至誠に基づくことは勿論ですが、父為景や兄晴景の誠忠に基づくところが少なくありません。当時、後奈良天皇が位についてから既に10年が過ぎているにも拘わらず、まだ即位の式をあげられませんでした。三条西実隆等の公卿が八方に奔走してその資金を募集し、天文5年(1535年)に至ってようやく大礼をあげることができた。この時に長尾為景がこのことを耳にして、金を献上して賀し奉りました。それより先、為景は国乱を治めようとして治罰の宣旨を賜わることを朝廷にお願いしていましたが、同年10月に御許しが出ました。為景は大いに感激して、金一万疋を朝廷に献じて忠勤の意を表しました。

晴景の代になって、国内が少し治まりましたが間もなく諸将が命令を聞かなくなり、国内が再び乱れて見透しもつかない有様でした。天文13年(1544年)4月20日、畏れ多くも後奈良天皇が大納言の勧修寺入道尚顕を越後の国に御遣わしになり、御自ら御認めになった心経一巻を晴景に賜わり、北越地方がよく治まり、その上五穀が豊かに実るよう御祈りになりました。晴景も有難く思い、皇居修理の費用を献上しました。

天文17年(1548年)、謙信が越後を平定して長尾家を継いだので、僧の花蔵院及び神余親綱を京師に遣わして、皇室に色々と献上物をしました。同19年(1550年)、時の将軍である足利義輝が書を寄せて謙信を厚く遇し、その上、上洛して一層忠勤を励むように忠告しました。謙信は深くその知遇に感激して、是非一度は上洛したいと考えたようです。同21年(1552年)4月21日、朝廷は謙信に対して従五位下に叙し、弾正少弼に任じられました。時に謙信は23歳の若さでしたが、「我は坐りながらにして官爵をお受けしたが、これは人臣たるものの礼ではない、是非一度上洛して宮廷に参じて御礼を申し上げなければならない」と言いました。そこでとりあえず、神余親綱を京師に遣わし、剣及び黄金、巻絹を朝廷に献上し、その恩寵を拝謝し奉りました。

上洛のことは謙信の寝た間も忘れないところではありましたが、当時は戦国紛乱の最中であったため、己の国を空けて敵地を横切り、遥か200里の彼方にある京師を訪れることは容易なことではありませんでした。殊にその年天文22年(1553年)8月には信濃の将村上義清等が武田信玄に攻略されて領地を失い、謙信の元へ救援を乞う始末であり、身辺多端を極めましたが、謙信は遂に断然決心して9月、精兵2000騎を引き連れ、先には海岸沿いに、ついで陸路によって京師に到りました。やがて朝廷から命があり、参内することを赦されました。謙信は大いに喜び、謹んで天皇が御出ましになる御簾の前に平伏しました。主上は半ば御簾を開かれて拝謁を賜わり、御前において勿体無くも御杯を下されました。侍臣は御銚子と盃とを捧げて静々と出ました。謙信は膝行して親しく天皇の御顔を拝し、恭しく天盃を手に取り頂いて御酒を受けました。この時御簾が静かに降りて主上が御引取りになりました。謙信は御酒を頂き飲み終わってから、天盃を傍らの非蔵人(朝廷の役人)に渡しましたが、かねて部屋に用意してあった唐櫃に天盃を収められ、そのまま下賜されました。更に御剣(瓜実の御剣という長さ6寸2分)一振りを賜わりました。その上宮中の拝観を赦され、勾当内侍(宮中の女官)を経て広橋国光に天皇の厚い御思し召しの御言葉を伝えられ、数々の優遇がありました。臣下としてこの上ない栄誉と言わなければなりません。

謙信は更に禁裡(宮殿)修理費を献上し、将軍義輝に謁し、大徳寺徹岫宗九(高徳の僧)に参じて戒を受け、帰路、高野山に詣でた。このように滞京の日数が重なったため再び経費を国元から取り寄せ、京洛を辞して行装堂々、天盃と札打った唐櫃を担がせて春日山上に還ったのでした。

弘治3年(1557年)、後奈良天皇が崩御され、代わって正親町天皇が御位を嗣ぐことになりました。そこで謙信は、再度上洛の決心をしました。それは親しく御門に朝勤して禍乱を取り静めることの勅諚を賜わり、その立場を明らかにしようとされたものにほかなりません。翌永禄2年(1559年)春4月、謙信は兵3000騎を率いて春日山城を出発し、行装堂々旅泊を重ねること十余日、一旦近江坂本に滞営してから27日、京師に入りました。

京都の公卿近衛稙家、勧修寺尚顕、日野光康、広橋国光、飛鳥井雅綱等の人々が出て接待を務めました。謙信はまず将軍義輝に謁し、5月1日、宮中に参内して天皇の御機嫌を伺い奉り、数多の献上物を差し上げました。天皇より拝謁を許す旨の御言葉があり、その上天盃の御剣(粟田口藤四郎吉光作五虎退という刀身8寸3分)を賜わったことは前回と全く同じでした。謙信は感激の情が胸に迫り、抑えようとしても抑えることができませんでした。大納言の糖橋兼秀が案内して宮中を拝観し、御盃を庭上に賜わりました。

謙信はまた、勅命を奉じて宮中修理の費用を献上し、南門を再興しました。

同年6月26日、将軍の足利義輝は謙信に対して裏書塗輿の使用を免許し、かつ関東管領の上杉憲政を保護し、信濃の諸将を授けて、武田晴信(信玄)を討伐することを命じました。

謙信はなお京に滞留すること月余、この月比叡山に登って根本中堂に詣で、石清水八幡宮に塞して更に高野山に登り、洛中洛外の神社仏閣及び旧知の公卿やその他の人々に対して、金、銀、青銅、衣服、白布、紅燭の類を贈りました。このために使者の往来識るがごとき有様でした。当時京師には多くの悪者共がはびこり、そのために良民が大変苦しめられていました。その時に謙信が北越から堂々精兵を率いて上洛したので、これらの悪者共がいずれも息を潜め、朝廷の威厳が非常に増しました。そこで謙信は厚い皇恩を拝謝し、皇室に忠を尽くすと共に、将軍足利義輝を護り立てることに力を尽くしましたが、何分にも機が熟しないので、万事思う通りには事が運びませんでした。時に朝廷の関白職を務める近衛前嗣卿は謙信を信頼すること最も厚く、いわゆる肝胆相照らす(この上なく信頼し合う)親密なる間柄となりました。そしてこの年の6月某日、前嗣卿は熊野牛王の神文誓紙に自ら心血を注いで他意なきことを誓いました(当時の風習としてこのようなことが行われていました)。このようにして謙信の滞留は5ヶ月の長きにわたりましたが、8月には馬首を廻らして春日山に還りました。

永禄3年(1560年)、正親町天皇御即位の大典が挙げられました。謙信は京師を遣わしてこれを賀し奉り、多くの物を献上しました。また将軍家や多くの公卿共に対してもそれぞれ心付をなし、先帝以来の御思し召しを受け継ぎ、内裏修理の料として土地を献上しました。

主上は大いに叡感あらせられ、赤地金らん1巻、引合と賞する料紙10帖を賜わりました。

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