七尾城を攻める


9月も謙信は七尾城を攻めました。たまたま中秋既午(9月13日)、月色は明朗でした。謙信はそこで酒を与えて陣中の将士を慰労し、自ら一詩を賦しました。
「霜は軍営に満ちて秋気清し。 数行の過雁月三更。
越山併せ得たり能州の景。 遮莫家郷遠征を憶う。」
の七言絶句はこの時の作です。

15日には七尾の部将で内応する者があり、城は遂に陥落しました。謙信は自ら入城し、長続連ら百余人を誅しました。

17日には能登末森城を屠り、山浦国清、斎藤朝信等にこれを守らせました。同城は加、能、越三国の境にあり加賀に入る関門の地でもあります。信長はまだ加、能に於ける謙信の勝利を知らなかったため、進んで加賀湊川に陣しました。しかし七尾城の敗報が届いたため、ためらって進もうとしません。謙信は更に進んで石動橋に至りました。信長は大いに恐れ、陣を撤退させ夜にまぎれて去りました。謙信はこれを追撃して千余人を倒しました。そして大笑して「何という脆さであろう、信長ではなくどぶ長である。これでは天下も手にはいったも同然である」と言いました。しかし信長は智将であったため、謙信と正面衝突したのではどうしても勝ち目がないためいち早く撤退したものと思われます。

このような有様だったため加賀は申すまでもなく、越前過半が謙信の手に帰属しましたが、関東の警報が至り謙信の陣営を驚かせました。そのため謙信は軍を引いて能登に帰り、七尾城を修築して部将に守らせ更に諸城の配置を整え、越後に帰りました。

◆前◆◆後◆

Line

◆上杉謙信◆

2007年1月5日更新