足利氏との同盟成る


天正4年6月には中国の毛利氏との同盟が成立しました。そこで謙信がいよいよ意を決してまず能登、越中を平定して然る後に京都に至らんとし、9月には越中に入って栂尾・増山の2城を攻略し、次いで湯山を落としました。

加賀の一向宗徒の中にまだ服さない者がいたため、前将軍義昭はこれを憂えて本願寺に諭しましたが、信長の術策によって松任城将鏑木頼信、奥政尭らが叛きました。本願寺光佐は宗徒を諭して頼信を誅し、政尭を赦すように乞いました。謙信はこれを承諾したため、加賀4郡は皆こぞって謙信に属しました。

謙信は進んで能登を征し、同年10月には大体平定することができました。余すところは七尾の1城があるばかりです。謙信はまずこれを落として然る後に上洛の途に就こうと思い、能登陣中において越年し48歳の新春を迎えました。時に関東の諸将らが頻繁に北条氏の侵略を訴えてきたため、謙信は能登の新領土を諸将に分かち、3月にいとまず春日山に帰りました。関東出陣の機がまだ熟さないので閏7月、再び能登に出兵し越中魚津に陣しました。長続連はこれを大いに恐れて使いを安土に遣わし、信長に助けを乞いました。そこで信長は柴田勝家、羽柴秀吉ら10余将に命じて大軍を率い援軍を出すことにしました。

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◆上杉謙信◆