川中島大激戦
武田氏は清和源氏の一流であり、甲斐源氏の宗家でもあります。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が初めて甲斐の国に来た時に甲斐守と称しました。そしてその子義清がここに止まったのです。これが武田氏の先祖です。義清の孫、信義は武田太郎と称し、源頼朝に従って功があり、その後裔である入道信玄は大永元年(1521年)に生まれ、大膳太夫に任じ晴信と称しました。そして天文10年(1541年)に父信虎を追い出し、国主となりました。信玄は人となり、雄武、軍法に詳しくことに権略に長じていました。精兵を蓄え、意を民政に用い、鉱山を発掘し、貨幣を鋳造し、常に民力を養うことを心掛け、一度は旗を京師に立てて天下に号令することを志していました。
天文22年(1553年)に信濃葛尾の城将村上義清が春日山に逃れて、謙信に
「吾、多年、信玄のために苦しめられ、居城葛尾、また奪われてしまい、今や身を容れる余地もない。何とぞ、公の武威におすがりして旧領を取り戻すことをお願いしたい。」
と心から哀願しました。これより先、信濃10郡の地は村上、小笠原、諏訪、木曾、平賀の5家が割居し、国内の争いが止む時がありませんでした。この時にあたり、甲斐の国主武田信虎(信玄の父)が暴威をほしいままにし、しきりに信濃に侵入して、まず平賀、諏訪の2氏を亡ぼし、遂に大挙して村上氏の元へも攻め上りました。義清は力戦して防ぎましたが利あらず、城を棄てて遂に謙信に救いを求めるに到りました。この時義清の麾下高梨政頼、須田満親等も同時に謙信に投じました。これを聞いた謙信は憤然として、
「信玄の亡状憎みても余りある。何のいわれもなく人の国を奪い、今や諸君の身の置く所もなくなった。諸君はいずれも名族であり、殊に高梨氏は我が姻戚でもあり、吾家のために尽力されたことも多い。どうして座視することが出来よう。我必ず一臂の力を添えよう。」
と堅く約束しました。そして謙信は直ちに一筆を認めて信玄の下に送り、奪い取った土地を還すよう勧告しましたが、信玄はこれに応ずる筈もありません。そこで謙信は詔を奉じて堂々と義戦を行うことを決意し、同年上洛の際に
「任国並に隣国に於て、敵心を挟む者は速やかに討伐するように」
との倫旨(天皇の御墨付)を戴いて帰りました。それが越後と甲州と多年勝敗を争う端緒(糸口)となりました。信州川中島という土地は信濃の北部に展開する平原、善光寺平(長さ10余里(40km))幅、広い所2里(8km)、面積17平方里(272平方km))の一部であり、千曲、犀の両川が合流して、中に三角形を形作る所の総称です。高井、水内(今、上、下4郡)、埴科、更科の4郡に分かれます。この平原は越後、上野、甲斐3国の通路の集合点で、(春日山より17里(68km)甲府より37里(148km))軍事上においては越後より南下、甲斐よりの北上は必ずこの地点において一応喰い止めなければなりません。そして西は戸隠の高峰が巍然としてそびえ、余脈が伸びて木曾山脈に連なり、飛騨の境となっています。更に東は三国山脈の高く険しい山が重なり合って、この平原の周囲を巡っています。この間に千曲川がえんえんとして屈曲、山岳に沿って北に流れ、そこに犀川の奔流が矢のように北西から千曲川に合流します。当年、越・甲2家がしばしば血戦したのは単に川中島だけでなく、犀川の北、或いは千曲川の南においてであったため、善光寺平の戦争という方が当たっています。そして東福寺、荒堀、杵淵、水沢の諸村落は両軍の勇将猛卒が鮮血を流して戦った場所で、殊に八幡原、陣場原は大激戦のあった所です。
天文23年(1553年)7月、信玄は嫡子の義信を伴って信濃の南方、佐久郡に入り、一晩の中に9つの塞を屠りました。謙信はその警報に接し、直ちに軍を整えて信濃に入りました。これが謙信が信濃に兵を進めた最初です。しかし信玄は軍を廻して本国に引き上げてしまったため、謙信も戦わずして引き返しました。
弘治元年(1555年)7月、謙信は兵を率いて春日山城を発し、信濃に入り善光寺(長野)に陣しました。信玄はこれを聞いて急に甲府を発し、行く行く兵を集めながら進軍して川中島大塚に陣しました。即ち犀川を挟んで対陣したのです。両軍相距ること僅かに30町で、この時村上氏の属将である栗田寛明が叛いて信玄に党し、旭山城(善光寺の西方)に拠りました。信玄はこれに精兵3000及び弓銃を贈って守らせました。7月19日に両軍は出でて戦いましたが勝敗は決せず、これより両軍は対峙して動かず、互いにつけ入る隙を伺っていました。やがて越軍の方から戦いを挑みましたが、信玄は自重して出ませんでした。この戦いは7月より閏10月に渡り、百数十日に及びました。信玄は密かに駿河の今川義元に調停を乞うことにしました。そこで義元は麾下の将を遣わして調停することとなり、両将は互いに誓書を交換して講和を締結し、信玄は旭山城を壊し、軍を収めて国に帰りました。謙信はそこで村上義清等の旧領を復して安堵させ、越後に帰りました。
弘治2年(1555年)3月23日、謙信は世務を辞して仏道に入り、隠遁しようとする志あり、このことを諸老に諮りました。元々謙信は深く仏教に帰依していたため、繁雑なる現世から離れようとしたのです。諸老等は大いに驚きかつ困惑して、謙信に是非志を翻すことを懇請した止みませんでした。このことは謙信が書き残した文書によって明らかになっています。8月17日に至って謙信は漸く意を翻して、再び国事を主宰することになりました。
上杉、武田の両家は今川氏の調停によって、一旦は両将の講和となりましたが、信玄の北信濃を侵略しようとする考えは寸時も止む時がありませんでした。弘治2年に信玄は盟約を破って計を設け、上杉氏麾下の諸将を誘惑しました。そして信濃の市川孫三郎や上杉氏の直臣大熊朝秀等が叛いて信玄に応じたのです。謙信は大いに憤激して同3年正月、信濃更科八幡社に祈願を込め、信玄の罪を訴えて信濃の平定を祈りました。
弘治3年(1557年)2月、信玄は兵を出して葛山(上水内郡)を攻略しました。城将落合備中守は衆寡敵することが出来ずして退き、3月下旬には信玄及び飯山城(城将高梨政頼)を攻撃しようとしたため、謙信は急を聞いて長尾政景等の参陣を促し、次いで旭山城の要害を再興しました。5月13日、謙信は進んで坂本岩鼻の諸城を攻破し、8月には上野原に出でて甲斐の軍を破り、9月に一旦越後に凱還しました。
これより後の約3ヵ年は上洛や越中の出陣、また関東への出兵もあって、謙信の身辺は頗る多忙で信濃を顧みる暇がありませんでした。
永禄2年(1558年)、将軍足利義輝が近江に避寓したのに乗じて、信玄は信濃守護職の名義を得ました。これより先、将軍義輝は越・甲の和を図り、京へ帰った後、両将に書を与えて講和を勧めました。そして謙信に対して速やかに上洛するように勧め、信玄に対しては越後を侵さないように忠告したため、謙信は初めて小康を得て上洛したのです。しかし信玄は忽ち約に背き、国境を侵しました。そこで将軍は謙信に命じて信濃の諸将を授け、信玄を討伐させることとしました。その上信玄の元に使者を遣わせ、その罪を詰責させました。
これに対し信玄は百方弁疎し、越軍侵略の罪を鳴らして敢えて屈する色がありませんでした。
同3年8月に信玄は海津城を築き、将高坂昌信にこれを守らせました。同城は3面を山に囲まれ、北の一方が展開して千曲川に望み、善光寺平を見下ろしにしているため、越軍南進の備えにはもって来いの要害の地点になっていました。これに対して謙信はなんら恐れる色もなく、断然として勝敗を一挙に決する態度を示したのです。