永禄4年9月10日の激戦


永禄4年(1561年)の春、謙信は北条氏小田原城の攻囲を解き、6月末に一旦越後に帰りました。そして人馬の疲れを休める暇もなく、命を下して信濃に出で、9月10日に川中島において大激戦が展開されました。この時謙信は32の壮齢であり、信玄は41の分別盛りでした。

謙信は気鋭にして勇断果敢行を以て名があり、これに反し信玄は、遠謀深慮を以て聞こえていました。そして両雄共にこの一戦にあらゆる智謀を傾け、秘術を尽くしました。この激戦は戦国時代においても多く比べるものがなく、全く壮観の極みでした。

謙信はまず、加賀越中方面における警備を厳重に整え、8月14日、歩、騎、輜重合わせて兵13000を率いて春日山城を出発しました。途中軍を2つに分け、1つは北国街道より進み、大田切の嶮を越えて善光寺に出で、1つは富倉峠から飯山に進出しました。先鋒の将は柿崎和泉守、本陣に従う者は長尾遠江守、山吉孫次郎、本田右京充等、横鑓に直江大和守、後軍に中条越前守、本庄越前守、新発田尾張守、色部修理進、鮎川摂津守、下条薩摩守、大河駿河守、安田治部少輔等でした。遊撃軍としては村上義清、高梨政頼を始め、井上、須田、島津等、信濃の諸将の姿がありました。

謙信は信濃に入ってから輜重を善光寺(長野)に止め、5000の兵を後詰とし、自ら精兵8000を率いて犀川を越え、進んで千曲川を渡り、甲斐の勢力範囲である妻女山(西条山とも言う)に登り、今の陣場平に陣営を設け、海津城を見下ろせるようにしました。敵陣の真っ只中に突入して陣を構えたため、甲州勢もその大胆不敵さに舌を捲いて驚いたといいます。

敵将信玄はこの報を耳にして、8月17日に兵17000を率い、急に甲府に発ちました。これに嫡男の義信、弟の信繁が従いました。途を諏訪に取り、和田峠を越え、行軍の速度を緩めました。これは敵状の変化を察し、途中から諸将の参陣を待つためでした。そして腰越に至り、次いで茶臼山に陣を構えました。この時には兵数およそ20000に達していました。海津城と東西相応じて、越後軍の退路を遮断してのです。両軍の隔たること約1里半(6km)で、旗指物が風に翻り、槍や刀の鋒先が日にきらめきました。謙信の軍は既に敵軍に取り囲まれ、袋の中の鼠のような有様で、将兵は何れも気後れし、謙信に退陣を進める者さえ出てきました。その中で謙信独りが泰然自若とし、少しも動じません。時には小鼓を打ち、謡曲を謡って、ひたすら兵卒の気分を落ち着かせるように努めました。この時における謙信は、戦機の熟するを見て、善光寺に残してある後詰の軍と旭山城にある味方の軍とを合わせて、一挙に茶臼山の敵勢を粉砕しようと考えていたようです。これに対して信玄は妻女山の動静を探り早くも計略のことを察知し、茶臼山の陣を撤して妻女山の前面を横切り、広瀬を渡って海津城に入りました。その軍は越軍の2倍以上でした。両軍は睨み合いのまま満を持して動きません。相対すること10日、信玄は気の衰え緩むことを憂えて、9月9日に遂に進軍の命を出しました。啄木の戦法を取って軍を二分し、1軍は迂回して妻女山の背後より夜襲させ、他の1軍は信玄自ら指揮して川中島に出陣し、敵の退路を絶ってこれを皆殺しにしようとしたのです。そこで同日夜、月の沈むのを待って、徐々に移動を開始しました。夜襲軍は高坂昌信を嚮導とし、飯富兵部、馬場民部等がこれに従いました。兵およそ12000、これに遅れること2刻(今の4時間)、信玄自ら兵8000を引き連れ、川中島に進み出で八幡原に陣し、越軍を迎え撃とうとしたのです。

これより先、謙信が密かに敵軍の動静を探っていたところ、夕暮に及んで海津城から盛んに煙の立ち昇っているのを見つけました。そしてこれは、敵兵が正に出陣しようとして飯を炊いているのであるから、今夜中に必ず軍を動かすことであろうと察知し、俄に諸将を集めて策を授け、出動の命を下しました。謙信が一度命を下すや、士気はいやが上に揚がり、全軍の意気は天を圧するほどでした。月は西山に落ちて、夜は正に亥の刻(深夜12時)となっていました。馬の轡は布で巻き、馬の舌は縛っていななきを止め、兵卒には枚(兵の口にふくむ)をふくませ、隊伍を整えて闇を探りながら、妻女山を下って川中島へと向かいました。そして十二ヶ瀬、月ヶ瀬(何れも千曲川中の浅瀬)から千曲川を渡りました。いわゆる頼山陽の作詩にある「鞭声粛々夜河を過る」というのはこのことです。謙信の将、甘糟近江守は河の西岸、東福寺は陣取っ越軍渡渉の援護をなし、かつ背後より万一敵が襲ってきたときのために備えました。全軍、千曲川を渡り川中島に出ると、柿崎和泉守を先鋒として出陣を布き、外に後陣を置きました。そして謙信は第2陣に在って、軍を指揮しました。刀八毘沙門の旗が陣頭に翻り、北国街道に沿って大車輪の陣形を為し、前軍、後郡互いに助け合って屈伸自在、一挙に敵軍を粉砕しようとしています。時は9月10日(旧暦)の夜明け前、暁の霧がもうもうと立ちこめ、秋の風がさっさっと鎧の袖を払います。やがて朝日が東の天に輝き、濃い霧も次第に散じました。信玄はまだ越軍の行動を知りません。突如として前面に人馬の声があがり、怪しんで眼を凝らしてよく見れば、敵の大軍が僅か3、4町(4、500m)の前面に迫っていました。天から降ったか、地から湧いたか、甲軍の驚きは例えようのないものでした。

越軍は既に小荷駄(輜重、軍器などの小運搬車)を犀川の方面に進め、戦闘開始となっていました。信玄は俄に軍を立て直し、盛んに弓矢や鉄砲を射掛けて敵を防ぎました。越軍の士気は旺盛で、懸り乱れ竜の旗を真っ先に立てて進撃し、謙信は自ら陣頭に立ち、叱咤激励して士気を鼓舞しました。「兜を伏せて、敵を見るな、旗を前に倒して進め」と・・・。将卒は皆これに応じて猛進しました。先鋒の将、柿崎和泉守は大蕪の纏を翻し、まず勇奮突撃し、全軍エイエイ、オウオウと声を合わせて敵に当たりました。互いに傷つく者があっても顧みる暇がありません。この時甲軍の勇将、山県昌景は側面から柿崎の軍を襲い、内藤昌豊、武田信繁の率いる鋭兵も善く戦い、川中島はたちまちにして一大修羅場と化してしまいました。銃声轟々、硝煙もうもう、両軍のわめき叫ぶ声は天地を圧し、山も裂けんばかりでした。甲将武田信繁及び諸角豊後守昌清は乱軍の中に戦死を遂げました。越軍の将竹俣三河守広綱は馬を乗り倒し鎧の草摺をかかれ、兜を打ち落とされた程の大奮闘ぶりでした。謙信はこれを見て大いにその勇を賞し、直ちに鞍馬1頭、堅甲1領を賜わりました。

混戦、乱闘、何れを敵、何れを味方とも見分けがたい程の戦場となりました。信玄が正に陣を立て直し防御しようとする刹那、地から湧いたか天から降ったか、信玄の本営目掛けて一目散に突入してくる1騎の武者がありました。その武者は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴衣を着し、兜の上を白練絹を以て行人裏となし、長船兼光(長光ともいう)の太刀をまっ甲に振りかざし、放生月毛(斑紋のある馬の一種)の駿馬にいと軽げにうち跨っていました。これこそ、32歳、血気盛りの謙信でありました。そして謙信は獅子奮迅の勢を以てこう叫びました。「信玄ー、何処にいる!」諏訪法性の兜をいただき、鉄団扇を以て床几に掛けていた信玄は、「無礼者!下がれ!」と叫びました。

この時謙信が電光石火の如く打ち下ろした太刀は、信玄目掛けて切り下ろすこと3度でしたが、信玄は刀を抜き合わせる暇がなく、持っていた軍配団扇を持って漸く防ぎましたが、団扇も折れてしまい、3度目の太刀が深く肩先を傷つけました。信玄の命は風前の燈でしたが、折しも甲軍の将、原大隈守虎吉が一散に駆けつけ、槍を以て謙信目掛け突いたのです。しかし槍がそれて馬を突いたため、馬は驚いて駆け出しました。信玄は危機一髪、虎口を免れました。いわゆる「流星光底、長蛇を逸す」とはこのことです。甲軍はその武者が誰であるのか分かりませんでしたが、後に至って敵の主将謙信その人であることが分かり、何れも舌を捲いて、その強肝不敵さに驚いたといいます。

甲軍の隊形は益々混乱し、収拾することができなくなりました。しかし原虎吉が「妻女山に向かった味方の一隊が引き返して来たっ!我軍、大勝っ!」としきりに叫び廻ったため、甲軍は少し形勢を回復しましたが、次第に千曲川の岸である杵淵、水沢の方面に圧迫されてしまいました。時既に巳の刻(午前10時)、内藤昌景等の隊を除いて大敗北となりました。これより先、甲軍の迂回軍は暗中、道を失し、漸く西条山に着いたところ、越軍の陣営はひっそりとして何の音もなく、1人の影もありません。眼下、川中島の方を見下ろせば、ときの声が天地に響き、硝煙もうもうとして立ち込めています。してやられたり、と地団駄踏んだもののどうしようもなく、慌てて山を下り千曲川を渡ろうとしましたが、今度は甘糟軍のために遮られ、容易に渡ることができません。余儀なく上流を迂回し、流れを乱して越軍の背後に出て襲い掛かりました。朝からのおよそ4時間に渡る奮闘により、次第に疲れが出てきた越軍は、今また側面から新手の敵に襲撃され、ここにおいて大塚、丹波島方面に退却するの余儀なきに至りました。甘糟近江守は殿を務めよく防御しましたが、犀川を渡る半ばにして高坂隊の追撃に遭い、利を失ってしまいました。世人がこの戦を評して前半は越の勝利、後半は甲の勝利と言ったのは当たっているようです。しかしさすがは武田信玄、この上深追いはせず、八幡原に凱歌をあげて甲斐に引き返し、越軍は善光寺に集合して、本取山で首実験の式を行うと、軍をまとめて本国越後に引き上げました。要するに両軍引き分けに終わったのです。

この戦で越軍の戦死は3400、甲軍の戦死は信玄の弟信繁、隊将諸角昌清、初鹿野源五郎以下4600であり、しかも主将信玄は、その子義信と共に負傷してしまいました。両軍の陣没者を合計すると、この戦に参加した者の約10分の4に当たります。これが約4時間の戦闘に於ける結果であり、交戦の激烈は古今に多く類を見ないところです。将士の奮闘ぶりが窺えます。

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◆上杉謙信◆