偽書の数々
寛文元禄の頃、甲斐の浪士で小幡景徳という人物がいましたが、高坂弾正昌信の名を藉り、信玄の兵法・戦術を名として数千の門弟を取り立てて糊口の資としていました。その著は甲陽軍鑑のように誣妄甚だしいものでした。越後に宇佐美定祐なる者あり、その祖先に謙信公の軍師に宇佐美定行なる人物ありと捏造し、父祖の軍法と称して宇佐神流の軍学を唱え、甲州流の軍学に対抗しました。その著は越後軍記・軍記等として世に出されました。定祐の友に畠山義真という者がおあり、相携えて無稽の書を流布しまいした。また夏目軍八という者は感状を偽造して、上杉記なる物を編述したと言われています。当時甲陽軍鑑に対する反感として、多くの人々が宇佐美・畠山氏の説を悦び、上杉累代の臣でありながらその説に幻惑された者も少なくありませんでした。越後治乱記・上杉軍記・川中島合戦辨・北越弓矢巻・謙信公御年譜・春日山日記の類は、いずれも信憑性に欠けています。
昔から多くの人に読まれた甲陽軍鑑・越後軍記・越後治乱記・上杉軍記・川中島合戦辨の類は、捏造の甚だしいものであるらしいです。
その最も甚だしいものを2、3挙げてみると、越軍の軍師である宇佐美駿河守定行や甲軍の名参謀である山本勘助が入道の如きという記述は捏造、或いは誇大表現であって、いずれも作者幻影中の人物に過ぎません。殊に滑稽ともいうべきは、越甲互に火花を散らして相戦うといえども勝敗決せず、永禄7年8月、越甲、各勇士を出して一騎討の勝負を為さしめ、これが勝敗に依って川中島を領有することを約束した。そして甲州方は安間彦六なる大兵肥満の剛勇の士を出し、越後方はこれに反し長谷川与五左エ門という小男を出して勝負させた。そしていざ勝負となると、短躯矮小の与五左エ門が巨豪仁王のような彦六を下より刺し貫きこれを仕留めて首級をあげた。小説もここまでくれば面白いというよりむしろ馬鹿げていると言えるでしょう。いくら戦国時代でも一騎討の勝負によって領土の所有権を決定するなどということは絶対にあり得ません。勿論、この後も川中島の領有権は武田氏に属していました。
越甲の争いはどこまでも結んで解けませんが、竜搏虎闘の大戦闘はその後見ることができませんでした。