関東の経略及び北陸の平定
謙信が初めて手を関東に染めたのは、天文21年(1552年)に関東管領上杉憲政が北条氏のために苦しめられ救援を乞うたのが発端でした。謙信は23歳。越甲が葛藤を生じた前年に当たります。その後20有7年間、兵を出すこと幾回であるか数え切れない程です。征馬三国峠を越えること前後14回、関東陣中に於いて年を越し、齢を重ねること凡そ9回、城を攻めること40余度に及んでいます。
先に上杉顕憲が関東管領足利基氏の執事となり、子孫代々その職を継ぎ、鎌倉公方管領(後公方と称す)を補佐して憲政に至りました。時に小田原城主北条氏康は関東一円を攻め従えて勢力甚だ盛んであったため、公方の職務は殆ど有名無実でした。憲政はようようのことで平井城を固守していましたが、どうしても北条氏の強大な力に抗すべくもありません。遂に謙信の義勇を募って春日山に到り、関東の治平並に公方の職を回復することを哀願しました。これが天文21年(1552年)正月のことでした。
超えて永禄元年(1558年)、北条氏康は再び憲政を攻めました。鋭鋒当たるべからず、そればかりでなく憲政の家臣達も多く離反してどうにも策の施しようがなくなりました。そこで再び春日山に到り謙信に見えて、持参した天賜の御旗・系譜・家宝及び関東管領の職務一切を謙信に譲り、北条氏を討伐して旧業を回復してくれるよう頼み込みました。謙信は深くその境遇に同情し、その頼みを引き受けることにしました。
けれども上杉氏の姓を冒し関東管領の職を継ぐことを辞退し、憲政のために居館を造って厚くこれを待遇し、世にこれを御館と称しました。
永禄3年(1560年)に謙信は、憲政の懇望を容れて関東出陣を決し、兵8000余を率い、三国峠を越えて沿道の敵を蹴散らし、進んで厩橋城(今の前橋)に入りました。憲政を本城に奉じて檄を関東・奥羽の諸将に飛ばしました。風を望んで来たり属する者踵を 接する有様でした。そして永禄4年3月、大挙して小田原城を囲みました。諸将凡そ200余人、大小70隊、総勢115000。雲霞の大軍が道を圧して進軍したのです。強大を誇る北条軍もさすがに、固く城門を閉じて死守するばかりでした。かくて包囲1ヶ月で謙信は厳命を下して一挙に城を破ろうとしましたが、佐竹義治・小田氏治等の諸将の諌めを容れて、長囲陣の不利を悟ってひとまず囲みを解いて軍を引き上げることにしました。(後年、豊臣秀吉が天下の大軍を挙げて海陸両面より小田原城を包囲し、7ヶ月余を費やして漸く陥落させた程です。)