鶴ヶ岡八幡宮に拝賀の式を挙ぐ


謙信は包囲陣を解き、憲政を奉じて鎌倉に入りました。鶴ヶ岡八幡宮の境内に制札を立てて軍勢が神域を侵すことを厳禁し、旧蹟を巡覧してその荒廃に驚きました。
時に憲政の懇請には切なるものがあり、謙信も余儀なくこれを容れて上杉氏の名跡を継ぎ、同時に関東管領の職に就くことを受諾されました。

閏4月16日、上杉氏継承のため、拝賀式を鶴ヶ岡八幡宮の社前に挙げることとなりました。謙信はまず恭しく社前に進んで拝礼し、諸将士はこれに倣って深く首を垂れて拝賀しました。奉献したのは雄剣1振、竜蹄1匹、黄金100両でした。社僧は仁王般若を転読し、祝部いわいべ(神官)は中臣なかとみの祝詞を唱え、神楽の男女は袖を翻して拍子を整えました。鈴の音がりんりんと鳴り、鼓の音がとうとうと響く、香煙の香りが四方に散じ、燈火の輝きが内外に映じました。寺院の諸僧や禰宜ねぎ、神主に対して夫々賜物があり、拝賀の式が終わった後宝前において、憲政の遍諱へんいを賜わり名を政虎と改め、山ノ内殿と称し、関八州成敗(支配権、賞罰の権)の権を掌ることとなりました。

将軍足利義輝は使いを遣わしてこれを賀し、関白近衛前嗣もまた、小田原の戦勝と上杉家相続とを賀しました。

謙信はそこで足利藤氏を擁立して関東公方と称し、関白と前嗣と共に古河城に入城させました。かくして謙信は6月28日、春日山城に凱旋しました。7月2日には一門長尾政景を始めとし、競って物を献じて上杉氏相続を賀し、同3、4の両日、能楽を催して賀宴を張りました。城中の歓声沸くが如き有様です。

謙信が関東から帰った後は、武田や北条氏が謙信の不在に乗じてしきりに属城を堵ったり、或いは術策を弄して叛旗を翻させるなどの出来事が相次いで起こりました。諸将もまた義を忘れて利に迷い、いつも粉乱が絶えない有様でした。謙信はそのためにある時は深い雪を踏み、ある時は炎天を冒して越山の労苦を積むこと幾度になるか、数え切れない有様でした。このような情勢のため、将軍兄弟による越甲講和の調停も功を奏せず、十余年を経過してしまいました。

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◆上杉謙信◆