駿・相・甲の同盟破れる


永禄11年(1568年)に信玄の驕傲ぎょうごうによって駿河・相模・甲州の同盟が破れ、今川氏がまず謙信に対して和親を求め、次いで北条氏もまた和を請いました。こうして越・駿・相の同盟が新たに成立したのです。

元亀元年(1570年)3月、氏政の弟(北条氏康第7子)氏秀を謙信の養子として迎えることとなり、同日11日に沼田城において対面し父子の礼を行い、次いで春日山城に帰り、25日にその幼名を授けて景虎と名乗らせました。

このように北条氏が謙信に和親を乞うに至ったのは、ひとえに信玄の侵略を恐れるためであり謙信によって、信玄が鋒先を緩めようと計る策に他なりません。信玄の軍が到れば謙信に救援を哀願し、去れば顧みることをせず、その間に一片の信義さえ見ることができませんでした。しかし北条氏康は英傑の士であり、智謀もあったのでよく謙信と和親の実を現しましたが、その子氏政に至っては心事陋劣ろうれつ、行動が常に曖昧であり、父の没後に驕慢きょうまんを加えたので、謙信に対する交情も日に日に冷却していきました。これに乗じて信玄はまた策を弄して彼を釣ったので、氏政は謙信との交誼こうぎを破棄して武田氏と同盟を結ぶに至りました。

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◆上杉謙信◆