本願寺の勢力


当時、一向宗徒の本山である京都本願寺の勢力が強大であり、あたかも大諸侯のようでした。法師顕如は越中の勝興寺を北陸7ヶ国の僧禄として、且つ同国の瑞泉寺、安養寺、加賀の本誓寺と共に宗徒を擁し南無阿弥陀仏の旗を翻して、攻略をほしいままにしました。そのため同地方の諸豪は閉塞し、加賀の富樫氏は滅ぼされてしまいました。同7年の秋には飛騨の国が非常に乱れました。謙信はそこで麾下の将、河田長親を遣わしてこれを調停させ、以後飛騨半国は謙信の有に帰しました。更に意を信濃と関東地方に用いて、越中を顧みないこと数年に及び、その間に同国は再び動揺し出しました。そこで永禄9年(1566年)6月、神保氏春を増山城に攻め、同11年には椎名康胤を金山城に攻めて降しました。これは信玄の教唆に応じて謙信に背いたためです。

元亀2年(1571年)3月、謙信はまた越中に出兵しました。同国の諸将の反覆が絶えず、忽ち背いて忽ち降服するという有様で、全く目まぐるしい限りです。これは皆信玄の尻押しによるものでした。このように上杉・武田の両氏はお互いに正面衝突を避けてはいましたが、各々秘術を尽くして謀計に余念もない有様でした。

天正元年(1573年)4月、信玄が出陣中に信州伊奈駒場において突如病没しました。享年53歳でした。これまで一向宗徒や越中の諸将を煽動して謙信の進路を塞いでいた武田信玄が没したため、加賀宗徒も退散し、この方面はようやく小康を見るに至りました。

同年、織田信長によって足利氏が滅び、朝倉・浅井の2氏もまた信長に屈したため、一向宗徒はその拠り所を失い北国の形成が変わってきました。

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◆上杉謙信◆